昭和40年10月05日 朝の御理解
踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃそんそん。これは伊予の阿波踊りの唄の文句ですね。踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃそんそん。私は信心をさせて頂いて、そう言う様な事が言えると思うですね。降ってもおかげ降らんでもおかげ。勝ってもおかげ負けてもおかげ。それこそ起きても転んでもどっちもおかげだという。そんなら私はそのうどっちもおかげならやはり、このおかげを受ける事もおかげ。
またはそれと反対の事になっていく事も、おかげであるならば、私共の願いが成就し、いや願い以上の事が成就して行く様な、おかげの方がお互い良いんじゃないでしょうかと思う。同じおかげなら、ね、やはりもろうてから、自分の思う又は以上のおかげを頂いてからおかげと言った方が良いのじゃないか。私本当にそう思わなきゃいけないと思う。本当にそう、おかげ頂きたいという。
それは降ってもおかげ、照ってもおかげという、そこの所を分からせて頂いて、そして自分に降るが都合が良いな、ら降っておかげであり、照って都合が良いなら、照っておかげを頂いた方が良くはなかろうかと思う。もう降るがいいと思いおりましたらそれが照った、ましかしこれも神様のご都合と思いますと言う様なおかげ。ね。それにはどうしても、やはり私共がです、おかげは和賀心にありと仰るですから。
本当に自分の只願うとか頼むとか、お取次ぎを頂くとかと、一生懸命修行をするとかと、その一切願う事も頼む事も、一生懸命修行させて頂く事も、私の心の上に和賀心を頂かして貰う、和らぎ賀ぶ心を頂させて頂く為に、私は信心せにゃいけんと思う。所が和らぎ賀ぶ心の頂ける、と言う事に焦点を置かないで、只おかげを願う頼む為に修行をすると。それでは折角教祖の神様はおかげ「おかげは受け徳、受け勝ち」、ね、
「おかげは受け徳、受け勝ち」と仰るような、私はおかげになってこないと思う。受けてもおかげ、受けんでもおかげならです。同じおかげなら受けたが、いわば受けねばそんそんじゃないでしょうかね。どうでしょうか。ね、自分で自分の心の中に、用心せよ心の鬼がわが身を責めると仰るが、用心せんでおいて、自分の心の中の鬼に責めぬかれておる。用心さえすりゃあ、そんな事はないのに、ね。
実意にさえなりゃ丁寧にさえなりゃ、本当に人からも本当に実意丁寧な人だと思われ、人徳も付き、自分神様の目から御覧になっても神徳がつく、あの氏子はと御信用を下さるのに、実意どころか丁寧どころか、横着で横柄でわがままで。馬鹿らしいでしょうが。さあその結果はどちらに、どちらでもおかげだと、またおかげであることが分からせて頂くことが信心だと、ね。
踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃそんそんと、ね、右になっても左になってもおかげ。ね、同じおかげなら自分の思うように、ま、思い以上におかげを受けて、私、行くことがです、ね、また受けなけれ、そんそんではなかろうか。自分の心をちょっと和らげるための努力をする。ああ自分が悪かったと、本当に分からしてもらう。そういうところがやはり、甘木の初代なんかは、もう本当に自分の心の中に和らぎ賀ぶ心を頂くことの為に一生懸命に精進をされた、努力をされたという。
その努力の跡をいろんな先生の、教えておられる事を伺わせて貰うとそれが感じられます。もう自分がよいと思うような心の中には、もう和賀心なんかが頂けるはずがない。もうそれが思い込んでござる。だからもし自分が良いというような心が起こったらです。それを仇のごと思うてそれに取り組んでござる。ね、そこからしか和賀心は頂かれんのですから。そこからしか人人徳も付かなければ神徳も受けられんのですから。
分かりきっておるんですもの。それこそ郵便ポストが赤いのも、電信柱の高いのも、みんな私が悪いんだと、私が悪いんだという、悪いんだというとこの分かるところまで自分を一つ掘り下げてみなければです。和賀心は生まれてこないのです。為に実意丁寧神信心させて、まあだけではですいつまで経ってもお道の信心、いわゆる教祖の神様の、いわば、お頂きになったであろうというようなです。
自分の心の中に平生心とか、和らぎ賀ぶ心というものはいただけません。その心に頂くところの、無限のおかげ、そこんところがおかげは受け徳ということになるのじゃないだろうか。自分の気の持ちよういっちょ、心の持ちよう一つでです、一生懸命それこそ難儀な修行をしよる。まあこれもおかげと思います。なるほどそれもおかげと思いますおかげなんだ。ね、けれどもそう、そう人が見て難儀じゃろうなあと思うような難儀をしなくてもです、おかげの頂けれる道を、教祖の神様は明示しておって下さる。
はっきり教えておって下さる。こういうあり方こういう考え方、ではおかげが受けられんと。しておかげの受けられんそのおかげも、やはりおかげだとこう。ね、本当に踊らにゃそんそんであり、ね、おかげを頂かなければそんそんである。本当この教祖は「おかげは受け徳、受け勝ち」と仰るのだ。ね、本当に受け勝ち、負けてもおかげであって、そのう、勝ってもおかげならです。
本当にいわばおかげを頂き抜かしてもらう、ね、勝たせてもらう。そういう私はおかげを本当に願わにゃいけないと思う。そうありたいと本当に思わにゃいかんと思う。本当の生き方、になればおかげが、自分の心の中に和賀心が頂けれるのに、ごまかしの生き方、なるほどごまかしの生き方でもおかげは受けられましてもです、それでは自分の和賀心に頂けるところのおかげではないでしょうが。
本当の生き方そこには、その本当の生き方の上に神様は許されるものは和賀心であると、その和賀心に限りないおかげを頂けていく、そこに「おかげは受け徳、受け勝ち」というようなおかげが受けられる。いわば信心とは、本当に自分の心の中に和らぎ賀ぶ心、限りなくそういう、和らぎ賀ぶ心が頂けれる、いわば研究と同じ事。つまり研究をせんどいて、信心の楽しみなんかって、喜びなんて与えられるはずがない。
おかげは受けてもその喜びは与えられるはずはない。踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃそんそんである。ね、てれぇっとしてから、人のおかげ頂いとるば見とるだけ、自分のおかげは頂かん。踊る楽しみなんかってない。ね、実際に教祖様が仰って下さったころの教えを行じて、行じるところの喜びというものを頂かずにはおかげを受けても、こげんつまらんはずはない。
こうしてこうすりゃ、こういうおかげにもなると仰って下さるのだから、そこんところを行じさせてもらう喜び、ね、それに現れてくるところの限りないおかげを受けさせてもらう。そこに人徳もいただけりゃあ神徳も頂けて、いわゆる「おかげは受け徳、受け勝ち」というようなおかげにもなってくる。信心の楽しみと喜びというのは、そこその信心の楽しみとか喜びとかっていうものをですね。
みんなが頂けんように頂けんように、努力じゃなかろうけれどもです。それを平気で言うたり、や行うたりしておる人がある。そげな心の状態で喜びを神様が与えて下さるはずがないことをです、平気で言うてのかす、やってのかす。本当に自分で自分の心が拝みたい心、それが和らぎ喜ぶ心なのである。そういう心に現れてくるおかげが私は本当に、同じおかげなら自分の思うようになって、またはより以上のおかげがです。
しかも限りなく頂けるおかげこそです、本当のいわば、おかげ、同じおかげならそういうおかげを頂かなければそんそんというような気持ちに、本気でお互いがならなければです、御教えが御教えになりません。もうこれは私は思うんですけれどもね、もう本当に御教えをです、身に付けておきませんとですね、もういよいよの時に必ず失敗致しますですよ。御教えが血や肉になっておきませんとですね、
もう本当に、もう本当にこげんばからしいことはないです。ね、なら御教えを身に付けるということは、いくら聞いたっちゃ、聞いたからというて身に付くもんじゃありません。それを行じなければです、身に付くもんじゃありません。血に肉になるもんじゃあないと。そこんところの一つ喜びを、楽しみを、頂かなければいけんと思うですね。
どうぞ、おかげを頂きますように。